負け犬論理の記事はやめておくれ

そろそろ出始めた「負け犬」の言い訳*1。日本チーム的には「大成功」だったアテネの時に、どれほどこういう記事が出たでしょうか。今回日本が5個以上のメダルを取っていたら、どれほどこういう記事が出たでしょうか。
今回こういう記事が(たぶんこれからも)出てくるのは、言うまでもなく今回の日本チームが、少なくともトリノの前半においては「これ以上ないほどの惨敗」と認めているからであることは確かでしょう。
恩田さんの言うことはほとんど正しい。努力が思い通りの結果につながらなければ、悔しいのは当然です。が、この記事はそれを正しく受け取っているでしょうか?「考えさせられた」というが、いったい何を考えたのでしょうか。
メダルを取れなければ結果至上主義を嘆く?−実に簡単なことです。私はそれを「負け犬論理」と呼びます。長野オリンピックのスキージャンプや複合で日本が大活躍したことにより、ルールが日本に不利になるように改定されたのと似ています。非常に格好の悪いことです。
参加することに意義がある」の意味を取り違えてはいないでしょうか。もちろんオリンピックは「平和の祭典」であって、参加することは大変重要です。それは自分の意志で、国や地域の代表として選ばれて参加するわけです。人々は期待し、だから結果を残そうとし、選手はそのために努力しなければならないのは当然です。上記の名言はそういうことを言っているのであって、「参加すればそれでよい」という意味ではありません。
さらに、努力をすれば何でも良いのでなく「結果に向かう努力」でなければならないですね。その意味で結果は努力のバロメーターであって、目指す結果を残せなかった人に「力を出し切れたから良かった」というのであれば、それは人選を誤ったことを意味します。
結果が重視されないスポーツはあり得ます。それはわれわれ市民が楽しむスポーツで、そんなものにいちいち結果を求められたのではたまりません。そういう状態が良ければ、オリンピックなんかに関わらない、あるいは興味を持たないというのも方法だと思います。それはそれで悪いことではありません。
でも、スポーツしている人の中には、密かにオリンピック出場にあこがれて、それでも4年にたった一度のチャンスに恵まれず泣いた人が、出場選手の何十倍もいることでしょう。そういう気持ちを考えるとき、結果を軽視することができるでしょうか。
もう一つこの記事に対して指摘しておかなければならないのは、「メダル至上主義≠結果至上主義」だということです。どうやら上記の記事では、これが同列に扱われている気がします。
メダルの数は結果の分かりやすい指標ですが、一つの指標であるにすぎません。例えば今回のカーリングの日本チームは予選敗退でしたが、それでも今までになく日本人にカーリングのおもしろさをアピールしましたし、今後の可能性を感じさせました。これは大きな成果です。