「ダイコンを過信するな」は正しくない

さも減圧理論を物知り顔で説明する人が言いそうな言葉ですが、「ダイコンを過信するな」はよくよく考えれば誤解の原因になる正しくない表現です。
一つ例を挙げましょう。
何年か前に、伊豆半島紀伊半島のように平らな移動経路の少ない地形付近でのSCUBAダイビングからの帰りの高所移動が話題になったことがありました。参考文献としては、ある機材メーカーによる著作物[1]*1などが挙げられるのですが、[1]の7〜8ページ「意外な落とし穴。ダイビング後の高所移動。」の内容には2つの疑問があります。
一つ目は、水中より圧倒的に高度変化による圧力変化が少ない空気中でなぜたった数百mの高所移動が問題になるのか*2、その原因がきちんと説明されていないこと。
純化すると、30m潜って浮上すれば、4気圧から1気圧、それは影響もあるでしょう。でも0mから標高500mへ上がっても、1気圧が0.95気圧になるだけで、変化は5%です。つまり水中と高所移動では影響度合いが桁違いと考えられるのに、なぜ高所移動がそんなに問題なのか。「短い組織」と「長い組織」の理論の適用があるのかも知れませんが、そこは何も説明されていません。
二つ目は、「600mを超える高所道路は…当日はできるだけ通行しないように」と、「600m」という具体的な基準を唐突に二度も持ち出しているが、その根拠が何も示されていないこと。「参考文献5」[2]*3と書かれていますが、その文献にも600mの根拠は書かれていないようです。
関東の多くのダイバーがご存じのように、東名御殿場IC付近には「最高標高 454m」という大きな標識が立っています。勘のいいダイバーなら「高所移動って400m以上のことだったっけ?」と何となく思い出すはずですが、[1]や[2]では600mとしているようです。なぜ?


蛇足ですが、600mの根拠は以下のように2つ想像できます。
その1:減圧理論のルーツである米海軍が「高所移動前の水面休息時間」という、一種のダイブテーブルのようなものを作っている。それが標高1000フィート区切りになっていて、(ここには書かれていない、何らかの理由があって)2000フィート≒600mを一つの区切りにしたのかも知れない
その2:地理的な理由。600mまでの移動が許されれば、一般的に西伊豆を脱出するのにほとんど障害にはならないからかも知れない。例えばこれが400mだと、土肥峠の船原トンネル、東名御殿場IC付近、熱函道路の鷹ノ巣山トンネルなどが通れなくなり、西伊豆からの移動はかなり不便。
上記「その1」は、現在の減圧理論のルーツである米海軍のルールを参考にしているという点では一見説得力があります。でも「なぜ2000フィートか」を説明しなくては、科学的とは言えません。
「その2」はぜんぜん科学的ではないですね。妥協の産物です。
ところで、ダイビングコンピュータって簡単にいうと何でしょう?極論と言われるかも知れませんが、思うにダイビングコンピュータとは「時計・ログ機能付き深度計」です。「深度計・ログ機能付き時計」でもいいですよ。そこに減圧理論というスパイスをふりかけてみただけです。「ダイビングコンピュータを過信するな」みたいな話をたまに見かけますが、それを正しく言うなら「減圧理論を過信するな」ということなんですよ。「時計を過信するな」「深度計を過信するな」と言われたらどうですか。そんなこと言われても困りますよね。
減圧理論をもっともらしく複雑に説明した文書を目にすることがありますが、ルーツを調べてみれば先人の経験則を体系化したものに過ぎません。疑似科学といったらいい過ぎかも知れませんが、科学的と言っていいかどうかは微妙です。生理学的な要素よりも、確率・統計的な要素が主になっています。
「何mに何分いたから水面休息時間は何分、高所移動まで何分」などと厳密に計算しても、例えば「明日の降水確率は53.2513%」みたいなことと同じで、科学的な意味はないのです。
そんなものに安全を任せられますか。これはダイビングコンピュータという製品の問題なのではなく、減圧理論の抱える根源的な問題…というより性質です。M値という謎の概念に釈然としないものを感じながら、しかしそれよりももっともらしい概念が存在しないので仕方なくそれを「信じている」という状況ではないでしょうか。
だから減圧理論が悪いというのではありません。そもそも減圧理論とはそういうものだということを正しく理解するべきです。減圧理論を信仰するのに「ダイビングコンピュータを過信しない」というのは偏った話です。ただし、ダイビングコンピュータを造っているメーカーの立場からは余計なお世話かも知れませんが。
ダイビングコンピュータは、ダイビングの時に参考となるそういった経験則を数値で表してくれるという意味で、決して無用の長物ではありません。ただし、その土台になっている減圧理論をいくらクドクドと説明しても、結局上記の例のように、説明しきれない部分が出てきます。「ダイコンを過信するな」という前に、もう一度 減圧理論の生い立ちから思い出された方がよいのではないかと思います。

*1:[1]株式会社タバタ「減圧症の予防法を知ろう」http://www.tusa.net/genatsu/genatsu.pdf

*2:飛行機などでの高所移動の影響を否定するものではありません。

*3:[2]駒沢女子大学教授 芝山正治氏「改正 潜水後の高所移動と標高」http://www.asahi-net.or.jp/~br2y-mn/2003/2003-4.pdf