駄文にもの申す−メダルは「うんこ」ではない

nikkansports.comでの2月15日更新の後藤新弥さんのコラム*1で、おもしろいことが書かれています。
トリノは「惨敗」じゃない』『メダルなんて「うんこ」に過ぎない』だそうな。でもこの敗者の言い訳にしか聞こえないコラムは大きく3つのポイントで間違っています。
ひとつは、(この更新時点では、彼自身も書いているように)まだ半分も終わっていないので「惨敗」とも「惨敗でない」とも断言することは誰にもできないということ。彼はこのコラムの中盤で「惨敗ではない」事を言おうとしている部分があるのですが、「努力を積み上げた選手がそれなりの成績を挙げている」とか「精一杯やって銅を取れば大いに褒めたい」など、およそ「惨敗ではない」事の説明にはなっていないのです。
2番目は、彼がこのコラムでメダルを「うんこ」と呼んでいること。これも大筋で間違っています。なぜなら、メダルとは上位の限られた成績を上げた者が、その結果得られる物だからです。「うんこ」のように誰でも出せる物ではありません。以前にも似たようなことを書きましたが、オリンピックに出場するということは「精一杯戦うこと」が目的ではなく、「結果を出すこと」が目的です。「精一杯戦うこと」なら他の場でもできます。「オリンピックだから」「結果が求められる」のです。極端に言えば、「精一杯戦うこと」が目的なら私でも出場できます。そうではなく、オリンピックは各種目のトップクラスの選手が世界から集まってくる場として、他の大会とは大きく意味合いが違います。また先に書いたように、どの選手も国や地域を代表する立場で出場しています。従ってオリンピックは単に「成果を発表する場」であり、だからメダルは老廃物ではないのです。
3番目は、「応援すること」と「結果を評価すること」をはき違えているということ。結果はどうであれ本人たちのやっていることを正当化するのはよいが、不調の原因をむしろ社会的な環境に求めるのは間違っています。日本の弱さの大きな原因の一つは、このように「負け」や「弱さ」を正面から認めようとしないことにあります。社会環境は間接的な原因のひとつではあっても、もっと直接的な原因に見て見ぬふりをするのは正しい評価ではありません。だから「なぜ負けたか」「なぜ弱いのか」の理由が、メディア上で正しく分析されにくいのです。