「命めぐる海」を見て

中村征夫さんの写真展「命めぐる海」を見に行きました。
いつも見に行くのが中村さんの写真になってしまうのは、けっきょくは中村さんのものが国内ではもっともプレゼンスのある水中写真になっている結果ではないかと思います。そもそも水中写真「ごとき」がこんな会場(三越日本橋本店)で堂々と展示されるのですからさすがです。
そしてこちらは偶然ですが、今回宣伝に使われている写真と私が先日座間味で撮った写真とは発想が似ていて、何だかおもしろいなぁと思いました(すみません、あくまでも「私の方が似ている」んですよ!)。
展示の水中写真の方は、写真そのものについては今さら私がどうこう言うまでもない、いつもながらに見ていて安心する作品が多くなっています。決して難解さを求めない、素直な水中への興味を表現した水中写真が、一般の多くの方の関心を集める理由なのではないかと思います。
ところで今回は気になった点がありました。
今回の作品は非常に大きなサイズにプリントされたものが多く、やはりそれは迫力があって、よかったと思います。あまりに大きいので、私の目でもその写真がフィルムで撮られたものか、デジタル写真かすぐに判別できるようなものでした。一瞬プリントの問題かとも思いましたが、年代物の写真ではそんなことは一切ないのでそうではないことが分かります。つまりデジタル写真はピクセルが見えるわけです。
もとより私は、水中写真を画像センサーの解像度とかプリントのきれいさではなく、中身のおもしろさで見ているので、そんなことは取るに足らない問題だと思います。気になったのはそこではありません。
今回の展示の最初のパートは、よく話題になっている(3月頃に撮影された)ジープ島での写真でしたが、そのパートの写真はほとんどすべてがデジタル写真のようでした。そしてその中でももっとも目立つところに飾られている写真が、私の目には「圧縮ノイズがボロボロに出ている」ように見えました。気になったのはそこです。
経験あるプロの方がそんなことに気づかないはずがありません。ですからご本人がそれでもよいと考えたか、事によっては私の錯覚だったのかもしれません。でも私なら、あの写真はあそこにあの大きさでは飾らないだろう、と思うような写真でした。
先に書いたことと矛盾していると思われるかもしれません。しかし圧縮ノイズというのは、単にピクセルが見えるデジタルノイズと違って「その風景になかったものが写っている」もので、しかも人工的になされた圧縮・展開によるある意味規則的な模様は普通は好まれないものです。
邪推でありはっきりしたことはわかりませんが、会場の雰囲気から判断するにその写真はある特定メーカーのある特定のモデルのカメラで撮影「せざるを得なかった」事情があり、さらにそのカメラはRAWで撮れないモデルだった事も(可能性としては)考えられます。
そのまったく同じ写真の、少し小さめのプリントが、会場前で21万円で販売されていたことにも、おそれおおくも若干違和感を感じました。
以下は別の問題ですが、そろそろこういった大きな展示の時に、フィルム写真と並べてデジタル写真を大きなプリントで飾ることについては、ダメというわけではありませんが、よくよく考えられるべきではないかと思います。
紙などにプリントするという展示方法はフィルム写真のために考えられた方法で、当然ながらデジタル写真に最適化された方法ではありません。この会場ではデジタルビデオカメラで撮られた動画がハイビジョンテレビで上映されていましたが、これは自然なことです。表現のための特殊な意図があるのでない限り、デジタルビデオカメラで撮られた動画をわざわざフィルムに焼き直して上映したりしないのと同種の問題です。それらの写真にそういった意図があるようには思えませんでした。
これら二つの問題は、うまい理屈で簡潔に説明できないのですが、写真がデジタル化される時代への適応問題として共通の部分を持っているのではないかと思います。